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第二編 東京専門学校時代前期

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第四章 小野梓(中)

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一 漱石に比すべき勉強ぶり

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 大西洋横断の十日間、冬期にはあり勝ちの荒天に悩まされ、リヴァプールに着いた時には、やれやれ、これで命拾いをしたというのが偽らぬ実感だった。直ちに汽車に乗ってロンドンに直行したが、それは恐らく明治六年前半であったろう。多くの留学生や洋行者は、初めて着いたホテル、定住を決めた下宿など、日記か手記に所番地を書きつける者が多いが、小野の場合はイギリスについては何一つ発見されない。夏目漱石や島村滝太郎永井柳太郎の宿などは、ロンドンでもオックスフォードでも、大半は今日、勿論持主は代っていても番地は大抵そのままだから、たやすく捜し出せる。そういうことを知るのも研究の一助となる。ただ小野の場合は皆目手掛りがないのが遺憾とせられる。行李を解く間もなく、大蔵省の官命による銀行理財の調査の外、アメリカの勉強の継続である法律の基本の研究に孜孜として努めた。「イ・クイン」という博士を私教師にしてローマ法の勉強に身を入れたことが、帰国後の彼の初著書によって知られる。

 イギリスに留学した者の中の勉強家としては、夏目漱石が最も有名で、他事を顧みる暇もなく書物と睨めっこしていたため、文部省からは報告の不備を叱られ、同じ留学生仲間には、頭が変だから漱石は本国に呼び返した方がいいと、文部当局に余計な告げ口をした者もあった。しかも漱石は他日、昂然としてその『文学論』の序にこう述べている。

余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所には傍註を施こし、必要に逢ふ毎にノートを取れり。始めは茫乎として際涯のなかりしもののうちに何となくある正体のある様に感ぜられる程になりたるは五六ケ月の後なり。……留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり。 (『漱石全集』第九巻 一一頁)

小野は不幸にして漱石のような文学者でないから、自らの勉強ぶりを書き残すことは甚だしく疎略だったので、恐らくこれに関しては遺稿の破片も見つからなかっただろうが、伝記者永田新之允は畢生の心血を注いだ大著述の内容から推及してこう言っている。

君は海外に在るも依然として刻苦家なりき。一面には銀行会社事務、財政事務を研究し、一面には法理政学は勿論、各国の制度を勉強して、ベンサム、ミルより仏独の碩儒に至るまで考衡其説を軒軽し、一々之を手簿に細書して後日に備へたり。

(『小野梓』 四三頁)

今これを対比して読む。脳裏に浮かんでくる二英才の勉強姿は、どこか相似るところがあるではないか。而して二人が帰国してもたらした成果は、漱石においては東京帝国大学に講ぜられて、厖然たる『文学論』に纏まり、識者は認めて明治年間この方面における第一の大著(いろいろ構成上の欠陥はあるが)の名声が定まっているのに対し、小野の蘊蓄は東京専門学校の特別講義として続けられつつ『国憲汎論』三冊となり、この類の書としては、実に明治時代、空前絶後として感歎これを久しうせぬ者はない。惜しむらくはそれは熟読した識者の評価に限られ、名のみ聞えて、実物に接せぬ学者が多いのは遺憾の極みである。それに内容がその頃としては最も進歩的な国憲論で、いわゆる高天原憲法とは本質において完全に背馳しているので、昭和十一年旧版『小野梓全集』が刊行せられた時は、国体明徴論が横行した際であったから、天皇機関説の先駆として目をつけられることを警戒し、これを全く除外したため、爾来三十年に亘って絶版の不幸が続いた。しかもこの間にさえ、識者は暗々裏にその不朽の価値を認めて、明治天皇の帝王学となったブルンチュリーの『国法汎論』が、ドイツの国権主義の上に構築された観念論的な政治論なるに対し、日本最初の実証主義的学説が早稲田に芽生えたものとして意義づけられて、ひそかなる研究は絶えなかった(蠟山政道『日本に於ける近代政治学の発達』、田畑忍「小野梓の憲法立法論」新版『明治文化全集』第二八巻所収、その他)。

二 第一回万国博覧会

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 小野が留学に出発する前の日本においては新聞らしい物が必ずしも絶無だったとは言えぬが、明らかにその資格を具えた刊行物はまずなかったと見る方が正しい。アメリヵに渡ってこれを手にして、初めは、どのページのどの欄に何が書いてあるのか、さっぱり手掛りのないのに苦しみ、持て余したのだが、日を経るに従い、それが自然に分って来て、読む欄、読むページが次第に多くなり、趣味を覚えてくるが、やがて、必備必読、これなしでは一日も過ごせぬようになる。新聞を文化的米の飯だというのは、ここから起った言葉であろう。こうして新聞の価値を知った小野は、その頃はアメリカ新聞より遙かに高度で、整理のよく行き届いたイギリス新聞を披読して、多大の知見を拡大したこと言うを要しない。

余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、凡そ民間学の流布したることは、欧洲諸国の間にて、独逸に若くはなからん。幾百種の新聞雑誌に散見する議論には、頗る高尚なるも多きを、余は通信員となりし日より、曾て大学に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、読みては又読み、写しては又写す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自ら綜括的になりて、同郷の留学生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には独逸新聞の社説をだに善くはえ読まぬがある

に。 (『鷗外全集』第一巻 四三六頁)

新聞の攻学的効果をこれほど明確に説いた文章はない。小野梓の教養根底をなすものが単にアカデミックな勉強に限らず、新聞によってイギリス政界の隆替、社会の風潮を心得ている痕のあるのは疑う余地がない。或いは学問研究に新聞披読をプラスして、後日その学説を大成したのは小野梓が最初の人ではないかとさえ思われる。

 小野梓の留学時代のイギリス(一八七三-四年)を、一句で彷彿するには、一時、明治の小学校を風靡して歌われた「世界一週唱歌」(池辺義象作)の左記の一連を思い出すがいい。

テームスドックに船よせて、上ればたちまち倫敦市。人目にうつる議事堂は、立憲政治の世の鏡。

十九世紀の華と謳歌せられたヴィクトリア女王朝を象徴して余りある。(以下ヴィクトリア女王については、主としてL.Strachey, Queen Victoriaによる。)

 ヴィクトリア女王は一八一九年五月の生れ、日本で言うと江戸文化が爛熟期に入った文政二年で特に記憶に残るほどの特長ある年ではないが、水戸の『大日本史紀伝』四十五冊が幕府に献上された年で、四年後にはシーボルトが日本に来て、江戸文化沈滞の底にも動揺の兆が起りかけている。父はジョージ三世の第四子ケント公だから、王位に就く望みなどはあまりない。彼女も宮廷生活で王の位置の如何に孤独なものであるかを、幼い時から身にしみて感じ、嫌いな人形に向っては、「女王様にしてしまいますよ。」と叱りとばしていた。しかし継承の権利者が次々に死んだり、躓いたりしたので、前王ウィリアム四世の死後、あれほどいやだった女王の位に就いたのは、一八三七年十八歳の時だった。一八四〇年にベルギー国王レオポルド一世の甥で、彼女とは同年の従兄妹同士であるアルバートを皇婿に迎えたのは、ともに二十歳の時。彼は聡明な性質に、類稀なる良教育を身につけていて、入婿早々、十九世紀のイギリスが思いの外にも精神萎縮、意気消沈に陥ること深いのを見出して大いに驚いた。オックスフォード、ケンブリッジの両大学には徐々たりながら、学問復興の曙光を見せていると期待をかけられていたのだが、しかし両大学の年々の入学生はそれぞれ四百人という不振ぶりである。アルバート親王は委員会を作って先ず大学の振興を計ったが、閣僚も議会も、いや全イギリスが、よそ者そして非英国人として冷たい目を以て彼を迎えた。しかし幸いにしてそんなことぐらいを気に病む神経質な青年ではなかった。それにヴィクトリア女王が相当の駻馬で、伴奏弾きでは満足していない。我儘でヴァイタリティが強くて、高慢で、そのため皇婿との間にしばしば衝突があった。ある時ヴィクトリア女王は皇婿の室の扉を叩き、誰と問われて「イギリスの女王」と答えたところ、開けてくれない。やむなく何度も叩き直すと、暫くして漸く二度目の誰かの問が出て、今度は「アルバートよ、あなたの妻」と答えると、すぐに扉は開かれた、というような挿話も残っている。

 彼は周囲が目を見張るほどの勉強家で、政治学には自分で期したほどの面白さを感じなかったが、ブラックストンにはひどく興味を持って、専門の法律家を家庭教師に呼んでみっちりと勉強したのは、明治天皇が十七、八の歳から最初の帝王学としてブルンチュリーと四年間苦闘されたのにちょっと似ている。彼はもとはlaissez faireの信奉者であり、現代においては文明の極致として「平和、進歩、繁栄」の三つを目標とせねばならぬと主張するので、保守派の諸大臣とはよく衝突した。その夫の感化を受けたヴィクトリアも、いつの間にか穀物法廃止の考えを述べて、保守派の首相メルボーンを呆気にとらせた。宮廷は常に保守党贔屓の傾向が多いからである。しかし遂に、若き夫婦に決定的勝利をもたらすチャンスが来た。アルバートの頭に「万国大博覧会」という考えが浮かんで来たのである。彼は二ヵ年かけて産業と通商の二課題に没頭した。リヴァプールのアルバート船渠の竣工式には自ら参列し、その後で細かにその実際を研究した。芸術と科学に至っては子供の時から好きなので、最も得意とするところだったのである。

 博覧会は前からある。しかし万国博覧会とは、全くの新アイディアだ。計画の進行中から、民間では賛否両論の呟きがぶつぶつと聞えていたが、場所がハイド・パークと決まると、急に議会と識者の輿論が、これに手厳しい反対となって噴煙をあげてきた。大陸から沢山の客が来なくては経済的に成り立たないが、その中にはきっと革命家とならず者が少からず混じり込んで、イギリスの醇風良俗が汚されると叫ぶ国粋論者も少くなかった。牧師は、天罰を蒙るべき瀆神の行為と言って祈りを上げ、軍人の中には、氷雪と雷火が下って、その建物も陳列物も破壊してしまえと叫ぶ者があった。この時アルバートの健康はこの準備と過労と不眠のため消耗し尽されて、立つにも堪えないほどであったが、若さに任せて無理をして、どの委員会にも出席し、反対論を押えるために演説をし、徹底するまで弁を納めず、世界の隅々にまで自分で封をして宣伝文書を送るほどの肩の入れぶりであった。

 一八五一年、遂に大博覧会は、女王によって開会の式が行われた。これは完全なるアルバート親王の勝利であり、ヴィクトリア女王朝を通じて最高の成果であった。イギリスが世界の最優位に立ち、指導者たる日はこの時から確然と世界の目に映ってきた。欧米各国の産業貿易の縮図が現実に示され、ナポレオン戦争の荒廃から、ほぼ立ち直りを完了したヨーロッパ諸国がそれぞれ務めた役割のうち、イギリスの分担が最も輝かしく、そして最大であることが何人の目にも明らかだった。

 万国博覧会の大成功この方、女王のアルバート親王に対する愛情と尊敬と信頼は飛躍的に増大し、今や恋人、夫から、神にまで熱が上がっていることは、筆まめな彼女の残した日記が明瞭にこれを語っている。アルバート親王は十九世紀のイギリスの繁栄を築いた唯一の原動力ではないかもしれないが、絶大な原動力ではあった。しかし世間に対しては、ドイツから来た皇婿の謙抑を持して、その鋒鋩を外にきらびやかに示すことをせぬ慎しみを守ったので、全イギリスは、この上もない良い婿養子を引き当てたものだと満足を表した。

 一八六一年十一月下旬の雨で冷える日、アルバートはサンドハーストに建った新陸軍士官学校を見に行き、その帰途に激しいリューマチに襲われた。それでひどく弱り込んだのが十分回復しないのに、三日後また、ケンブリッジ大学に入学させてある皇太子を訪問する用事ができた。その帰途の冷え込みで、彼は動けないほど衰弱を重ねた。十二月一日、首相パーマーストンから女王の許へ急使が送られて、アメリカにおける内乱の勃発が必至の形勢にあることを伝え、それに対して発すべきイギリスの勧告の案文の裁可を乞うた。アルバート親王は、それを一読すると、寝床から起き上がって、震える手で、きつ過ぎる用句を和らげ、平和に解決するように望む旨をつけ加えた。政府はその修正に異議なく、直ちに電報で伝えて、戦いは収まりそうだった。しかしこれが親王の最後のメモランダムとなった。付添医では心もとないので、首相は、宮廷の抵抗を排し、外からワトソン博士を呼んで診察してもらうと、激烈なチフスで、どんな治療も手遅れだった。十二月十四日、朝十時、遂に薨逝。享年四十二歳であった。

三 新時代開く

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 史家は言う。「皇婿殿下の死はヴィクトリア女王の歴史の主要な回転軸である。彼女は愛婿の死とともに、自身の本当の生涯は終り、後の生涯は長かったが、要するに、薄明りがいつまでも暮れ切らないのと同じく、演じ終えられたドラマのエピローグに過ぎぬ。」

 ヴィクトリア女王朝には、産業革命の生んだ諸結果が、百川の合流する大河のように、汪洋として世界の海に注ぎ込んだから、鎖国の頑固さで識者を驚かせた極東の日本でさえ、今では日本橋下の水がテムズ川に通ずる事実を疑う者はもうなかった。世は一せいに自由へ、民主への方向に傾斜し始め、穀物法の廃止を象徴として、保護貿易主義は敗北し、マーカンティリズムも遂に終止符を打った。新時代の政治の担い手となって現れたディズレーリもグラッドストンも、所詮はこの時代の児である。

 そして先に大命を受けたのはディズレーリの方で、一八六八年二月二十七日のことだから、日本では慶応四年二月五日に当り、維新のスタート間際で、大君ではなく天皇と称することを外国に通報してから半月ばかり後であり、極東と極西(我が国から言って)の小国同士が、共に多事多端の渦巻きの中に立っているのは注目に値する。

 ディズレーリは天才である。それが、また山師と言われ、奇術師と呼ばれる所以でもあった。尾崎行雄が逝去する一、二年前、これを訪ねた客が、彼が若年の頃『経世偉勲』として、ディズレーリを物語風に書いて、世に問うたのを不思議にして尋ねた。大隈の片翼で改進党の名士である咢堂は、当然、自由党の大首領グラッドストンをこそ題材として選ぶべきだったとは、誰しも思うところであろう。咢堂はこれに対して答えた。「いや、グラッドストンは偉大だが几帳面で面白味が少い。ディズレーリなら、政治というものは、変幻出没、こんなにも面白いものだということを、まだ政治について無知識の、その頃の日本人に知らせるのにもってこいだと思ったのだ。」と。小野梓もディズレーリの新伝記を手に入れ、咢堂と前後して、しきりに読み耽っていることが日記に見える。

 ディズレーリの政治歴中、最も輝かしい勝利の一つは、首相就任の前年に、病中のダービー首相の代理として、一八三二年の第一次選挙法改正以来の懸案である改革案を議会に上程し、虚々実々の議会戦術を駆使してその通過に成功したことであったが、皮肉なことに、新選挙法による第一回の総選挙では、有権者の倍増が自由党に幸いして、第一次ディズレーリ内閣は短命に終り、代ってグラッドストンの初内閣が、十二月九日を以て揚々と登場して来る。アイルランドの国教廃止ならびに小作農の権利保証をはじめとして、初等教育の普及・充実、陸軍売官制度の廃止、秘密投票制の確立など、次々に自由主義的改革を実現したのが、この内閣である。

 小野梓はこの内閣が五年目を迎えて、さすがの沸騰的人気も辛抱強いイギリス国民からあくびを催しかけられているところへ、留学して来たのだ。小野が海外で実際政治を肌身につけて観察したのは、アメリカでは未だそれを摂取するだけに十分の知識が進んでいなかったので、この第一次グラッドストン内閣のみと言ってよかろう。それも彼は前後を通じて概観する機会がなかったのだが、徳富健次郎の『グラツドストーン伝』によって、この内閣の挙げた成果の概略を付載しておく。

此六年間の如く改革の精神盛にして、改革の事業捗取りしは、現世紀中其比を見ざる所、此六年間に国債一億余万円を減じ、租税六千二百五十万円を減じ、且二千五百万円の剰余を残せるの一事を見るも、以て其施政の手際を思ふ可し。左ればヂスレリーの如きも虞氏の政策を評して「内治に於ては歩を拍へ、外交に於ては歩を進めらる可し」と云ひ、今に到りて英国政治史上に「自由主義の黄金時代」と称せらる。蓋し虞氏が一生に於て尤も手腕の伸びたるは、実に此六年間にありとす。

(『蘆花全集』第一巻 三三三頁)

 小野はこれを実地に見聞して帰国し、その全知嚢を傾けて大隈重信を輔けることとなるのだが、その大隈とグラッドストンとを対比して描いた面白い一文がある。筆者は外務省内の文士として知られた小松緑(霞南)である。

古今東西を問はず、世の中に性格経歴共に酷似してゐる一対が多くあると同時に、それが悉く正反対に背馳してゐる一対も少くないが、酷似と背馳とを兼ね具へてゐる一対は特例であらう。吾人は英のグランド・コムモナー(大平民)と謂はれたグラツドストーンと、我が老偉人大隈侯とに於て、此の特例中の最も顕著なるものを発見するのである。此の両政治家の相背馳してゐる方面は取別けて人格に於て其の甚だしきを見る。又相酷似してゐる点は両者の経歴である。大抵の政治家は早熟か老成かであり、老成といつても多くは功成り名遂げて身退くを常とするのに、此の両人だけは早熟で老成で、大臣にも宰相にも幾回かなりながら、猶ほ政治を生命とし、毫も老の至るを知らぬといふ所に、両人を聯想せしめる重もなる理由がある。近頃の大臣中に明治生れがあるといつて、其の出世の早いのに驚く人が多い。それでも其の若いと云はれる者が大抵五十前後である。大隈は二十五で大蔵少輔になり、三十六で大蔵卿になつたから、出世の早い方であらう。そして六十一で首相となり、七十七で再び首相となつた所から見ると老成の実をも現はして余りある。グラツドストーンは三十一で大蔵次官、四十一で大蔵大臣となつたから、大隈よりも少し後れたが、一般の例から見ると、二十四で首相となつたピツトを除けば早い方である。大隈とグ翁が、同じやうに財政家として政治舞台に乗出したのは、偶合の一ツである。両人が共に四十六の歳に政党首領になつたのは、偶合の二ツである。同じ歳で大隈は改進党の総理、グ翁は自由党の総理となつたのである。大隈は六十で始めて首相となり、グ翁は六十一で首相となつた。グ翁は八十四で四度目の首相となつて、九十歳で長逝した。大隈は、七十七で二度目の首相となつた。七十七乃至八十四の老首相は今古に稀なる事例であらう。東西の島国に、しかも僅か三十年前後の間に、此の二偉人を出したのは偶会奇遇の最たるものである。〔ただし以上の年齢計算は正確を欠く。〕 (『偉人奇人』 二三―二四頁)

四 功利学派の流行

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 グラッドストンとディズレーリの対立で、政界に新時代を到来せしめた十九世紀のイギリスには、新しい哲学が結晶していた。すなわち功利説である。小野梓がロンドンで勉学を始めた時は、その殿軍をなし、そして後に小野の『国憲汎論』の重要部分の構成を刺戟し、また天野為之にその優れた経済学を樹立させる原典を作ったジョン・スチュアート・ミルが六十六歳十一ヵ月で最後の息を引き取る直前であった。

 ただし功利学派の先頭をなすのは、断るまでもなく、ジェレミー・ベンサムで、先祖代々の法律家、そして自分もそれを受け継ぎ、弁護士であった。二十歳過ぎの若い頃ヨーロッパ大陸に留学し、最初の著述は『政治断想』(Frag-ment on Government)で、実にアダム・スミスの『国富論』、ギボンの『ローマ衰亡史』と同年(一七七六年、ベンサム二十八歳)の発行である。匿名なので、久しく何人の著述なのか疑問とされていたが、彼の志向が政治を問題としていたことがこれで分る。その十三年後には『道徳および立法の原理序論』(An Introduction to the Principles of Moralsand Legislation)を公刊し、これこそベンサムの名を不朽ならしめた大著述である(一七八九年、四十一歳)。「正邪の標準は最大多数の最大幸福である(The test of right and wrong is the greatest happiness of the greatest number)」を原理とし、そして何人も一人以上ではない、帝王も乞食も同じ一人として数えるべきものであると言って、例えばエマーソンの、賢人の一票は凡庸の十票にも百票にも値するというような説の否定的立場になる。

 実を言うと小野は、世にベンサム学徒と称せられていても、『道徳および立法の原理序論』の方は倫理学書であるから、どの程度親しんだか不明であるが、それに基づく政治論『国憲法典指導原理』(Leading Principles of a Consti-tutional Code, for any State, 1823)は、手にすると実に眼界が新たに開けた思いで味読し、身読し、没頭し、傾倒し、そして自説の構成に至ったことは、『国憲汎論』を研究し、批評する諸学者の等しく認めるところである。その一例は、後章の稲田博士の梗概によっても読者は首肯するであろう。

 ベンサムの説の継承者であるとともに、批評者、修正者として続くのがミル父子である。父はジェームズ、子はジョン・スチュアート。子のジョンは父よりも遙かに偉大で、父の後を継いで功利説に最後的批評と欠陥の修正を施したのは彼である。

 小野梓がヴィクトリア女王朝の中期にイギリスに留学してこの功利学派に接したのは、その時代として当然であり、分派した両学派の末(ダーウィニズムと社会主義)にまではいたずらに瞳孔を拡大せしめなかったのにも無理はない。日本にもカント、へーゲルに通暁して、滔々と大学で講義ができ、正確にして難解なる翻訳に堪える学者教授は見出される。しかしそれを、俗に言えば身につけて、言行の端々にまで示している類の篤学の士が、幾人数えられるであろうか。外国の諸学説を知識としてのみ受け入れるような学風は、明治になってからの著しい傾向で、それ以前は、仏教を入れ、陽明学を修めるにしても、頭に知ることより、身に体することを念とした。例えば中江藤樹、熊沢蕃山、大塩中斎、吉田松陰、西郷南洲などの如く、陽明学で人間を練ったような学問的方法を実践した者は、イギリスで蘊蓄した功利学派学説を他日『国憲汎論』の著に生かした小野梓一人ではあるまいか。

 更にここに付記するを控え得ないのは、天野為之の経済学である。論敵河上肇から、今後このように博大な知識を持つブルジョア経済学者は、もう二人と生れて来まいと言って、その死を痛哭せられた福田徳三は、日本経済学の恩人五人を挙げ、神田孝平、福沢諭吉、田口卯吉、犬養毅の最後に、天野為之を加えている。天野経済学は、ミルの説を消化して、日本の経済学を学問として深め高めたというのであるが、してみると先にベンサム以下功利学説を打って一丸として、憲法体系を作った小野梓あり、後に功利学派の殿軍をなすミルの特に経済学を移植した天野為之あり、早稲田学苑がこの学派に負うところはまことに深いと言わねばならない。

五 女王みやげの林檎

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 小野は筆不精の加減か、明治十二年以前には日記も手記も多くは残しておらず、プライヴェイトなことになると殊更に記述を避ける風さえある。しかし全く伝記を残さない積りでもなかったらしく、「自伝志料」と題した若干の遺稿残欠があり、次のようなエピソードを語っている。

 「明治六年三月の頃なりき」とあるからイギリスに着いて間もなくのことであろう。彼はイギリスにおいては、特に上流階級と交際する縁が開け、ある時知人に招かれて宴席に出ると、会衆みんな日本人を珍しがって、彼をめぐって挨拶をした者の多い中に、一人の軍人がいて、「日本は支那の属国であるか」とか「日本人は家の中に起居しているか」などという質問を発した。小野は日本が歴とした独立国なることを答え、アラビア人か蒙古人のように、天幕か包の中に住んでいるように考えられるのが心外だから、「日本人は、既に電信、鉄道を利用するまでに、文明が進んでいる」と付け加えた。数日してその客は、先の日の無礼な質問を謝ったが、小野は、日本のことがあまりに海外に知られていないのに驚いたと言っている(『中央学術雑誌』明治十九年二月十日発行第二二号附録「東洋小野梓君伝」一八ー一九頁)。尤も彼が日本を去った時、電柱の立つのは見たかもしらぬが、鉄道はまだ開通していなかった筈で、客遊中に故国からの手紙にでも依って知ったのであろう。

 この時から五ヵ月以前、イギリス視察を終った岩倉具視全権大使が、ウィンザー宮でヴィクトリア女王に拝謁すると、これを日本の皇后陛下へと言って、林檎の四つ入った籠をことづかった。ニュートンの話で、林檎などイギリスにはふんだんにあることかと思っていたら、宮廷の贈答品に使われるほどの貴重品だったのだ。持て余して、保管を一番年少の林董(後年のイギリス大使)に命じておくと、やがて見えなくなったので、どうしたと聞いたら、「日本に帰るまでには腐ってしまいますから、私が食べました」と答え、それで咎めも受けず、事は済んだ。交通機関の発達により、全地球の距離は半分に縮小したという話で、ヴィクトリア女王は、ドーヴァー海峡で一夜明かせば翌朝は日本に着いているくらいに錯覚していたのかもしれない。彼我両国の認識は、お互いにその程度だったのだ。ただし小野は、アメリカでは岩倉大使一行に会っているらしく思えるが、イギリスにおける彼らの行動については、一言も書き留めておらぬ。

 小野は、先の招宴の挿話のあったのとほぼ同じ頃と思われるが、ロンドン在留の日本人有志に呼びかけて、一つの会合を組織することに尽力した。当時は、今考えるよりも遙かに多くの人が渡航していたので、パリには三百人以上(西園寺公望、中江兆民、光妙寺三郎など)おり、ロンドンでも百人を下らなかった。しかし未だ同国人意識、或いは共通的国民感情が稀薄で、旧藩時代の反目の風習をそのまま海外に持ち越し、例えばハイド・パークやロンドシ橋で出会うことがあっても、互いに肩を怒らせて睨み返して過ぎ行くのみで、うなずき合うだけの親睦も示さぬ。同国民が海外に出てまで素知らぬ顔で過ぎるのは、袖の触れ合いも他生の縁という諺を忘れたものだ。これがもし、相互に習得している知識の交換の場でもできるなら、どんなによかろうと、馬場辰猪が音頭を取り、本藩と支藩の差はあっても同じ土佐出身の小野梓が主として実務を引き受けて、日本学生会が発足した(明治六年九月)。小野は、江戸においても藩校を嫌い、広く天下の人士と知り合うのを望んで、敢えて藩校をしりぞけて昌平学校に入った前歴がある。この企てはそのロンドン版とも言うべきものだが、この会合の愉快で有益であったことは、深く脳裏に染み込み、帰国後は、政府留学生がまず出仕を考える前に、彼は同志を語ろうて、東京に「共存同衆」という集りを起している。今の我々には、この意味が一読直下では分りにくい。高田早苗は「クラブ」というほどの意味と説明し、西村真次は「共存」とは社会、「同衆」とは協会ということに外ならないと言っている。その文化的活動の目覚しさは、第二の明六社という評価を受けた。いずれその創立の項下で再説するが、小野のロンドン土産に外ならなかった。

六 グラッドストン内閣の危機

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 日記・感想には筆不精な小野も、当時の青年の教養の漢詩は残してくれているので、その行跡や心境など、若干たどる手掛りにはなる。

 彼は晩秋から冬にかけてロンドンを襲う霧には、僅かの経験ではあったが、まさに恐怖を抱いた。当時はsmogという新語はまだ生れておらず、dreadful fogと言って、地元の住民でも怖気をふるっていたものだ。霧や煙というより、鼠色の真綿の塊がもくもくと繰り出されてくるのに取り囲まれたようで、いつ呼吸が止まるかと心配になるほどだった。小野は、肺結核で死んだ父の遺伝で、弱々しい腺病質な体軀の持主で、過度の勉強はすぐ健康にこたえ、よく胃病を起して、アメリヵでは医者から転地を勧められたものだったが、気候の違うイギリスではリューマチを引き起すこと再三であった。大陸へでも旅行してみてはどうかと医師に言われると、それはかねての自分の望みでもあるので、旅装を調え始めたのは十月(明治六年)頃であったろう。小野の作詩中、最大長編の七言古詩「長夜吟」はこの頃の作ではないか。一夜、睡りをなし難く、起きて灯をともし、明滅するだけで口のきけない汝を相手に語るより、如かず漫吟して時の移るを待たんには、との数句で始まるこの詩は、次のように展開してゆく。

 「一成一敗元不定、昨是今非因遭時。」と言って先ずエジプト、ギリシア、ローマの起倒興亡を叙し、一躍して今度はナポレオンの追想となる。全欧を震蕩した一世の功業も華徳路(ワーテルロー)の一敗に、「わが事」畢って、爾後、仏墺の両帝国は昔時の全盛を失墜し、その後には、孛俄意英(プロシア・ロシア・イタリア・イギリス)が互いに軍備の競争に日もこれ足らぬ有様である。ただしイギリスはいささか強いと言っても、昔日のように海上に孤立した安全は守れず、プロシアとロシアとは連衡して何か事をたくらみ、老瑟(ビスマルク)の腹の中は、なかなか油断がならないと言って、次のように続く。

可憐唇亡歯多憂。又不見欧洲既帰酣戦地。宇宙統一事不漫、欧洲即是天下首。欧洲握得謀易完。嗚呼欧洲天下首、一朝獲之天下安。(傍点新付) (「東洋詩文」『小野梓全集』下巻 一二九頁)

すなわち、最も深く感慨をヨーロッパ大陸の近世史から現時の形勢に寄せているのだが、その中でも特に「宇宙統一事不漫」と言っているのは、三年前、初めて上海に遊んで作った「救民論」に、早く芽生えている思想で、六合一致の上、天下の大徳を以て、この弱肉強食の浅ましい諸国政治を撤廃せしめ、「今為宇内生民之計、莫如建一大合衆政府、推宇内負望之賢哲、使之総理宇内焉。置大議事院、挙各土之秀才、確定公法、議宇内之事務。」(同書同巻一四〇頁)と結論していることは前に述べたところである。これ世界国家論で、宇内の賢哲を挙げて総理たらしめ、大議事院を設け、各土の秀才が集まって、共同の公法を議すというのは世界議会の謂に外ならず、早く言えば、今日の国際連合の初歩的な素描のようなものである。上海での未だ幼稚だった空想をイギリスに来ても放棄せず、遂にここまで発展せしめてきたのだ。

 それから若干の時日を過ぎてからヨーロッパに渡り、「滞欧中作」の一絶がある。断蓬に似て東西に飄然たれども、「群書我友例為伴」とは、この旅行中も読むべき書を携行するのを忘れなかったわけだ。「咏史」にナポレオンを読んでモスクワで半生の功業を煙にしたのを歌ったのは、別に珍しくないが、承句に「千載名存律幾篇」としてナポレオン法典を賞揚しているのは、如何にも法律書生の面目で、日本に帰ると先ず『羅瑪律要』を訳し、『民法之骨』を著作した順序がうなずける。また「中秋下来因河」の七絶がある。元来、小野にはまとまった単行の詩集が残されておらず、従って、「鞭声粛々」とか「孤軍奮闘」とかいう詩のように、広く人口に膾炙し、剣舞にまで仕組まれて、世に流布した詩は勿論ない。また本人もそういうことは望みもしなかったであろうが、その中で、若干、人に知られること広い作と言えばこの一絶である。

亜児山月一輪秋、夜泛来因河上舟。遇逢良夜無人伴、無限情懐下日州。

(「東洋詩文」『小野梓全集』下巻 一三〇頁)

亜児とはアルプス連峰のこと、そしてこれは李白が流謫から赦されて帰国する旅情を歌った「峨眉山月半輪秋」を踏まえて作ったので、一読すぐ記憶に留め易い。無限情懐とはローレライの伝説、それを歌ったハイネの名詩に思いを馳せたのであろう。日州(ゼルマン)を経てイタリアに出て「羅馬懐古」の一編があり(同前)、起句が「七丘起伏帯斜陽」は、そぞろに薄田泣菫の名詩「公孫樹下に立ちて」の初連「ああ日は彼方イタリヤの 七つの丘古跡や廻廊の 円き柱に照り映えて」の句を連想させる。この両詩作成の間には三十年の年月の間隔があるが、その感覚の清鮮なること、小野梓もまた詩魂を欠かずと言うべきである。

 ところが彼は、ゲーテも憧れた「君よ知るや、南の国」の遊意を十分に尽さず、急に物に憑かれたようにして、ロンドンに戻って来ている。時日は明確でないが、年末だったと推定して誤りあるまい。実はイギリスの気候はこれから厳しさを加え、濃霧は凍って、外套の織目から染み込んでくるのだから、リューマチには最も悪いのに、あわててドーヴァーを引き返したのは、恐らく政治情勢が急に切迫したのを新聞紙上で知って、健康も顧慮しておられなかったからであろう。万一、議会解散にでもなれば、それこそ千載一遇の好機、苟も政治を志とする学徒として、見逃しにできるものではない。

 岩倉大使の一行は、明治五年十一月十六日にロンドンを発って、帰国の途についたが、一行が帰国後に完成出版した『特命全権大使米欧回覧実記』には、詳しい事情は洞察が届かぬながら、この政局の不穏に注意して、こう記述しているのである。

我一行ノ滞府中ニハ、政府ノ評判甚ダ悪カリシガ、後グラッストン氏ハ辞表ヲ出セリ。倫敦ノ評判ハ、保守党ノヂスレリー氏ガ、宰相トナルトイヒタレドモ、皇帝辞表ヲ取上ズ。爾後又改進党ノ評判モ取直シタリ。当皇帝ハ英国ノ人望甚ダ深ク、古来絶ヘテ少キ仁君ナリト仰望セリ。 (第二編 八三頁)

 右のイギリス政況の記述に、「ヂスレリー氏ガ、宰相トナルトイヒタレドモ、皇帝辞表ヲ取上ズ。」とあるのは、その記述が全く反対で、ヴィクトリア女王は寧ろこの際、内閣を更迭せしめたかったのだが、ディズレーリの方で真っ平と辞退したのだ。

 事はアイルランド問題から起ったので、このケルト民族の建てている国は、イギリスの癌であり、七百年の長き紛争相剋の歴史を持ち、代々の治者が、どんなに骨折ってもいささかの効果もなかった。グラッドストンは政治的理念から言えば、明らかにアイルランドを深憂する政策を以て臨み、国教廃止案、土地法案を通過させた。

 「アイルランドに影を落す悪樹があり、三枝の凶枝を持つ。一は国教会、二は土地法、三は教育」とは彼の言うところで、今や一と二を剪り落して、余勢を駆って第三枝に斧銭を加えようとし、アイルランド大学改正案を提出した。これは各派の要求を総合したような巧みな構成で、大抵の人が最善ではないとしても次善ではあり、どうにか納得しそうに思えて、議会に勝ちを制することはほぼ確実と見えたのに、新教と旧教の絡み合いの難しいアイルランドでは双方から反対論が強く、自由党内にも内々で異論を抱く者があった。しかしグラッドストンの提出理由を述べる熱烈の雄弁は満場を傾聴せしめ、この時敵党より百十五議席も多い自由党が敗れるなどと思った者は一人もない。しかるに開票の結果は、意外にも反対票が三票多く、遂にこれは廃案となり、第三凶枝を切り落そうとした試みは、思いがけぬ蹉跌を来たしたので、グラッドストンは、直ちに閣議を開き、一同異議なく、総辞職に決定した。

 ところがヴィクトリア女王は、有名なグラッドストン嫌いでディズレーリ贔屓だから、勿論この政変をほくほく喜んで、ディズレーリを呼んで意向を叩いたが、彼は言を左右に託して組閣を避ける。蓋し今度の三票の勝利は自由党の分裂から生じたものなので、これがアイルランド問題でなかったら、直ちに結合し敵対してくるだろう。そんな危ない目に遭わなくても、このまま放っておけば、斜陽のように刻々、衰頽し行く自由党の人気は、遂に熟柿の如く自然にもげ落ちて壊滅し、回復が容易でなくなるだろう。それまでは手を拱して待つに如かずと計算したのである。グラッドストンはこの採決で敗軍の将たりながら、やはり心ならずも内閣を持ち続けねばならなかった。だから議会解散の早晩来ることは必至であり、小野梓はこの形勢に胸を躍らせて、大陸から急ぎ帰ったと思われる。

七 抜打ち解散

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 年は明けて一八七四年(明治七)となる。内閣は烈寒の季に入り、選挙戦の困難を思いやったか、なかなか解散令を下さぬ。そこで、やや国民が気をゆるめた時、正月も下旬に入った二十三日、グラッドストンは病床からグリニッチの自分の選挙区に向けて長文の宣言書を発表し、「政府の勢力、もはや公務を取るに堪えず、もし再び勢力を回復し得たら、今度は是非これらを断行する。」と述べ、続いて久しく低迷の密雲を破って風雪のすさぶが如く、解散令を下した。全国民から薄々予期されながら、しかもその決行は閣僚にまで寝耳に水で、実に近代議会史上、抜打ち解散の典型的なものとせられる。

 グラッドストンは病褥を蹴って、自ら数選挙区を駆けめぐり、苟も「空樽の見つかる所」では必ずその上に立って、持前の雄弁を揮ったが、時運去っては如何ともし難く、百十五議席の多数を占めた自由党は、それらを悉く喪失して足らず、今や保守党が四十六議席多数を占めるに至った。グラッドストンは自身の選挙区においてさえ、第一位は酒屋が占め、現職の総理大臣が第二位に蹴落されたのだから、惨敗の状はおよそ知られる。直ちに辞職し、今度はディズレーリが意気揚々と、彼の第二次内閣組織に登場し来たった。

 しかしこのグラッドストン内閣ほど、近代の議会政治の良さを十分に発揮して、国民のために多くの実績を挙げた前例がないのに、ヴィクトリア女王が心底からのグラッドストン嫌いになってしまったのも、またこの期間中だったのである。なぜそうなったのか。グラッドストンは、女王の怨みを買うようなことは何一つしていないばかりか、却って人一倍の尊崇を捧げ、例えば輿論に逆らって女王の歳入を増す処置を採っている。その点は彼女も感謝していたのだが、何分にもグラッドストンが、あまりにも方正謹直で、苟も憲法に逆らわぬ範囲では神格化に近いほどの畏敬を女王に表して、冗談口一つきかないのに、却って窮屈で堪らぬ思いを禁じ得なかった。

彼〔グラッドストン〕は、私がまるで行政府そのものでもあるかのように心得ている――というのが、女王のいつもよく口にした不満だった。公私に拘らず、言葉の調子が女王の好みに合うのには少々警句的であり過ぎた。それが彼女の反感の中心であった。実は彼女は、あたかも一つの公的組織でもあるかの如くに考えてもらうことに必ずしも反対ではない。彼女は確かに組織だった。自分でもそれを心得ていた。しかし彼女はまた血肉を具えた女であった。それがまるで組織の権化でもあるように取扱われるのは、我慢のならないことだった。かくてグラッドストンの熱誠も、恭敬も、儀式張った奏上も、深い敬礼も、堅苦しいほどの正確さも、全く浪費だった。 (Lytton Strachey, Queen Victoria, pp. 246-247)

 そこへゆくとディズレーリは軌道を外す弊はあっても、女王へ奉る長文の建白書に、彼の小説著作に用いる麗句妙章を自在に駆使し、奏上の主旨には関係のない政界のゴシップから、市井の些事まで書き列ねる。それで彼女は今まで宮廷に育って夢にも知らなかった多くのことが分った。これに反してグラッドストンは用事のみを書く。アイルランド教会法案の時は、草案に添えた説明の手紙だけで、クォート判、密字十二ページに亘った。草案を読めば、説明の手紙が分らず、手紙を読むと草案が不可解になるので、あっちとこっちを読み比べ、ノートを作って、どうにかこうにか了解することはした。謁見の場合でもディズレーリは、許される範囲で、世間話も交えればお世辞も言って、適当に楽しませてくれるが、グラッドストンときたら、たまにお世辞を言っても、左様然らば式の紋切型だ。要するに一方はユダヤ人で叩き上げた苦労人だから、女心を籠絡する手練手管の秘訣を用い、他方は名家育ちだからその融通がきかない。

 これは、政治家、特に君主立憲国の総理大臣は、君主に対してどれだけの距離を置き、或いは接近し、密邇すべきかを考えさせる。小野梓はその点に留意したかどうか分らぬが、『国憲汎論』を一読すると、この種の著書としては異常なほどの尊王心、皇室への忠誠が、紙表に溢れているのに驚かされる。明治のあの時代でさえ、確かにいささか過剰とさえ思える。しまいには「忠狂」と自称した伊藤博文でさえ、シュタインやグナイストの教えを聞き、各国憲法はその国の歴史、慣習を重んぜねばならぬのだと特に注意せられるまで、その点の認識が曖昧だったことは争われない。小野がそれに先んじて、皇室への尊崇を繰り返してやまぬのは、土佐人としてはいささか不思議で、幕府に特別の因縁があった山内家家臣の伝統ではない。ただ新田義貞の遠裔として、皇室への忠誠は家憲であり家訓であったと考えれば首肯できる。この点、アメリカ女性で小野梓研究家なるサンドラ・T・W・デイヴィスの批評は服するに足る。彼女は、外国制度を日本に適合させるに当って、非常に違った(西洋)文化から発生した制度を、日本に取り入れる場合に、どのような困難な問題、矛盾が生ずるかについて、根本的分析を欠いている、と指摘している。特に小野のような深厚な天皇崇拝が、功利主義を背景とするイギリス政治思想と、どう調和できるのか、彼自身も内心、或いは大きな疑問を抱いたかもしれない。

 ヴィクトリア女王の一顰一笑が、如何に根深くその後のイギリス政界に浸透したことか。ディズレーリは第二次内閣を退いて逝去するが、女王から受けた信寵は、その後四十年の長きに亘って、保守党をして自由党より常に有利な立場を占めさせた。或いは明治の政界の消長で、伊藤をディズレーリ、大隈をグラッドストンの立場に置いて比較できるかもしれぬ。伊藤は銜え煙草のままで明治天皇の寝所にまで出入りの許されるほどの信任を得ていた(これは西園寺公望が否定しているが)。これに反し大隈は、雉子橋の私邸に行幸のあった時、随行の高官から下役人に及ぶまで、金の火鉢に金の火箸を添えて出したので、臣下の分際として贅沢が過ぎると言って、天皇の不興を買ったのだという流説があった。

 大隈は、薩長藩閥外から出て、またたく間に彼らを凌ぎ、筆頭参議に上り、遠慮気もなく思うままに腕を揮った。そのために志を得ざる藩から出て、十分の栄達はできなかったが、天皇に密邇して、その信任を博した側近からは、言い合せたようにひどく憎まれ、或いは嫉視され、折あらば失脚させてやろうと、鵜の目鷹の目で狙われていた。熊本出身の元田永孚、非上毅など、その隠謀家の尤なるもので、彼らから、大隈よりも好意を持たれ、大いに便益を得ている伊藤博文でさえ、元田永孚の務めている役割を知ると、元田の後には、もうあのような役職を置いてはなりませぬぞと、天皇に向って一本釘をさしている。実は、初めは大隈に信任多く、現に大久保死後、大久保に嫌われてロンドンに追いやられていた井上馨を、伊藤が呼び返すと、一体誰の許しを得たかと、明治天皇の宸怒を受け、伊藤が悄気きっているのを、大隈が仲に入って取りなしをしてやったことが『伊藤博文伝』に書かれている(中巻一一二―一一三頁)。少くとも明治十四年の政変までは、天皇の大隈への眷顧はなかなか厚かったが、天皇は、大隈が前と違うことを奏上したからとっちめてやったと、いとも愉快そうに語って聞かされたと西園寺が小泉策太郎に話している例もあるから、後年において、大隈嫌いのような事実も、あるにはあったに違いないと思われる。

 大正天皇践祚の時、三宅雪嶺は、今度の新帝は大隈伯への眷顧が厚いから、遠からず或いは大隈内閣ができる日があるのではないかと予言し、たとえ電信柱に花が咲いても、十五年野にいた大隈にその機があろうとは何人も考えず、荒唐無稽として、世間は笑った。しかし世界大戦勃発の前夜、それが実現したのである。立憲政下でも天皇と組閣との間には微妙な交錯がないわけではない。

八 議会解散の実況を見る

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 アメリカで実地に見た大統領選挙は日本ではあり得ないことだが、イギリスで目の当り観察した議会解散から総選挙は、今後、憲政施行を見る日が来れば、必然実現の期待されること故に、より身近な興味を覚えたであろう。その証拠には、畢生の心血を込めた『国憲汎論』の層々累々と積み上げられる構成の中に、突如としてこの解散の思い出を挿入し、それから自家の結論を引き出して来ている事実に深く注意せよ。

余ヤ嘗テ英国ニ遊学シ、親ク其国会ヲ解散セシモノヲ観ルニ、ソノ及ブ所大ニ宇氏ノ所言ニ似ザルモノアリ。唯リコレニ似ザルノミナラズ、其勢間々大ニ吾人ノ意思ヲ満足シ、為メニソノ妙用ヲ感ゼシムルモノアリ。当時英国ノ宰相愚刺土斯頓、善禰波判断ノ事ト愛蘭土大学ノ事トヲ以テ大ニ時望ヲ失シ、世論又外交ノ失策ヲ咎ムル深シ。然ルニ其愛蘭土大学ノ議ヲ下院ニ下シテ之ヲ議セシムルヤ、之ヲ非トスルモノ僅ニ二百八十七人ニシテ、之ヲ是トスルモノ尚ホ二百八十四人ノ多キアリ。非議ノ過数僅々三人ニ過ギズ。是ヲ以テ英人大ニ国会ノ所為ヲ咎メ、其輿論ニ添ハザルヲ議ス。英国皇帝之ヲ聞キ、令ヲ下シテ其国会ヲ解散セシメ、新ニ詔命ヲ発シテ議官ヲ改選セシム。詔降テ数月、各地各々其代議官ヲ保挙シ、以テ詔命ニ対へ、下院ノ議官六百五十二員ノ中、ソノ保守党ヨリ出ヅルモノ大凡ソ三百五拾一人アリ。輿論深ク其民意ニ合フヲ称ス。是レ蓋シ英国皇帝ノ夫ノ方便ヲ利用セシ的例ノ一ニシテ、是ノ前後又タ必ラズ之ヲ利用スルモノ多カラン。是ヲ以テ之ヲ観レバ、国会ヲ解散スルノ事ハ寧ロ社会ニ利アルモ之ヲ害スルノ実ナク、其之ヲ害スル者アルハ、会々之レガ方便ヲ害用スルノ過誤ニ出ヅルヲ知ル。唯ダ夫レ是ヲ以テ之ヲ害用スルヲ防グノ要術ヲ求ムルハ、吾人ノ一務ナリト雖ドモ、其害用アルガ為メ其方便ヲ併セテ之ヲ棄ツベシト云フニ至テハ、余レ終ニ之ニ与ミスルコト能ハザルナリ。既ニ第十五章ニ説クガ如ク、泰西各土ノ憲法、政本ノ職ヲ明置スルモノアラズ。故ニ今其実例ヲ叙テ読者ノ参照ニ供スベキモノナシ。然レドモ余ヲ以テ之ヲ観レバ、各土ノ憲法大抵暗暗裏ニ在テ夫ノ政本ノ大柄アルヲ認メ、議官選挙ノ権ハ某々ノ国民ニ在ルヲ言明シ、国会ヲ解散スルハ君王ノ特権ナルヲ明示スル等、其実顕然トシテ掩フベカラザルヲ観ル也。 (中巻 二六八―二六九頁)

 この宇氏とは、当時のアメリカの政治学者なるウルジーで、彼が議会の、今日我が国で言うところの抜打ち解散不可論者であるのに小野が反対しているのである。ここに善禰波判断とはアラバマ事件の国際裁判の判決がジュネーブで行われたのを言う。小野は抜打ち解散は場合によって必要だが、ただこれを悪用してはならないことを戒めている。後に日華事変直前の林銑十郎内閣が、予算の通過した直後に、この伝家の宝刀を抜いた有名な「食い逃げ解散」、終戦後の吉田茂内閣の「バカヤロー解散」のような、理由に乏しく暴挙を通り過ぎて滑稽の感さえある不当解散が起ってくることは、小野といえども予想がつかなかったに違いない。

 解散の実況さえ見ると、小野は留学所期の目的はこれでほぼ達したとして、急いで帰国の準備を進めた。政府は海外留学生全員の一旦帰国を前年末に決定したので、例えばフランスにいた中江兆民はすぐこれに応じて志業半ばにして帰国し、西園寺公望は華族として受けた維新の賞典禄を売って私費生となって残った。小野は中江とは同藩の縁がありながら親しむ機会なく、西園寺とは恐らく全く相知らなかったであろうが、しかし二人とはお互いに、その存在や活動を視野の中に留めてはいた。蓋し留学生の成績が挙がらず、国費放濫の状があるので、一せいに引き揚げを命じたのである。小野は一つは健康を顧慮するところもあって、この命令を不服とし、遺憾とした痕はない。

 他日再びヨーロッパに来ることは容易でないから、エジプトに寄って、アレキサンドリアからカイロに赴き、駱駝に乗って砂漠を越えて、ピラミッドやスフィンクスを見物し、西洋文明の太源を見た。四年前、上海に行った時、中国大陸の奥地に入って、東洋文明の太源を見た半面の補足をする積りであったろう。ヴァンクーヴァー号という太平洋航行会社の船に乗って、五月二十二日、五年目に祖国に帰った。世は明治七年、いわゆる功臣反目の結果、征韓論が破裂して大西郷が故山に帰臥した翌年である。

九 共存同衆

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 小野梓が日本に帰ってからの官歴を言えば、明治九年八月十五日、司法少丞に任ぜられたのを以て最初とする。この時二十四歳。しからば明治七年五月に帰国して、この二ヵ年の間何をしていたのであろうか。第一、政府の留学生で、帰国を命ぜられながら、場合によっては幕臣から旧賊軍の有用の材も起用し、いわゆる猫の手も欲しい時、何の官途にも就けず、放擲して顧みられなかったのは、頗る疑問の点である。

 しかしこれは、征韓論分裂と前後して、民権論が大いに勃興し、政府は帰国した留学生が不穏の危険思想に感染して、これを官界に持ち込むことを警戒し、独り小野に限らず、多くの帰国留学生にそういう猜疑の目を向ける態度を執ったからである。それに小野の方でも、政府に向って警戒するところがあった。それは政府部内の分裂動揺で、大西郷は故山に退閑した後、薩派の大久保、小西郷などの起した台湾征討に、内治第一の木戸孝允、山田顕義その他鳥尾、三浦などの軍人まで加わって長州派の巨頭が連袂して政府を去り、薩長もここで完全に分裂していた。やがて佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱、遂に西南戦争と続く不穏の地響を起している矢先だから、うかつに官途につけば、どんな渦に巻き込まれぬとも限らぬ。近づかない方が安全である。

 しかし袋に蜜を充満させて花園から帰って来た蜜蜂のように意気盛んな小野が、無為に手を束ねて、この急潮のように動く時勢を傍観していられるものでない。先にロンドンで馬場辰猪とともに結成した日本学生会の、愉快且つ有益であった思い出の忘られぬ小野は、同じような会合を東京で再開したいと志し、帰国後僅かに四ヵ月、行李を解く間も、長旅の疲れを医する間もなく、同志に呼びかけて「共存同衆」という会を作った。沢大洋の「共存同衆に関する一考察―共存同衆とその政治思想の研究―」によれば、

日本学生会〔は〕いわば共存同衆の濫觴とも母体ともなっているのではあるが、後者が前者の単なる日本への移籍とみることは危険である。……日本学生会は外国における封建的割拠を打破して、留学生間の融和親睦や知識交換等相互扶助を目的とした単なる同胞の求心的一種のクラブであったが、共存同衆は……共存の道を講ずる一つの政治的な志向を持った、遠心的に啓蒙運動を社会的に展開する啓蒙学術結社で、構成員からしても英国留学生のみならず当時の青年新知識を広く結集していたからである。  (『東海大学記要 沼津教養部』昭和五十二年発行 第五輯 二〇―二一頁)

 小野の演説した「共存同衆の歴史」によれば、人間共存の道を講究、勧奨するのを目的とし、会員は四門すなわち法制、教育、理財商業、衛生に分ち、毎月第二、第四の水曜を講話日として同衆員は集まって、互いに討論するという組織である。発会に当り、五十人に招待状を出して食事まで用意しておいたのに、集まった者は僅か七名。だがそれは皆一騎当千とも言うべき有力者であった。赤松連城(本願寺の傑僧で赤松克麿の祖父)、尾崎三良(早くから洋行し、尾崎行雄のテオドラ夫人は、三良とロンドン女性との間に生れた混血児である)、広瀬進一、松平信正、岩崎小次郎、三好退蔵。しかしその評判が伝わると、後のことになるが金子堅太郎、島田三郎鳩山和夫、増島六一郎、菊池大麓ら大抵既に海外留学の経験ある諸名士が、続々と加盟した。しかし講演者の中で最も活躍したのは発起者の小野梓と馬場辰猪であったことが、残っている記録(『共存同衆年会始末』)で分る。

 機関誌として『共存雑誌』を発行した(第一号明治八年一月、終刊十三年五月、全六十七号)。これは一代を指導啓蒙したことで、第二の『明六雑誌』と言われる。なるほどそう言われると、或いは『明六雑誌』に暗示を得、幾分それを継承する意気込みで、刊行を思い立ったかと考えられる点もある。『明六雑誌』は小野帰国の明治七年から発刊されたのだが、いくら新帰国の新知識でも、福沢諭吉や森有礼や西周や中村敬宇のような先進の大家ぞろいでは、二十二歳は小僧ッ子ぐらいにしか映らず、こちらから入会を乞いもしなかったが、迎えを受けもしなかった。『明六雑誌』が何となく文明開化的、初歩の百科全書的傾向のあるのに反し、『共存雑誌』は自由民権の背景を反映し、さすがに明治十年代の傾向を代表するだけに、『明六雑誌』より一段と水準が上がっている。

 明六社が二年で解散したのに対し、「共存同衆」は断続たりながら長く続いている。それどころか明治八年十月、会堂を建設すべき決議をしているのは、この会がスタート早々、好望の曙に照らされていた証拠で、間もなく解散するものと考えたら、会堂の建設など夢想もしまい。そして二年後の十年二月(ちょうど西郷軍の蹶起した時である)、京橋区日吉町七番地に落成して、共存衆館と名付けた。この扁額には小野がローマで詠んだ前掲の詩を題している。曩日の夢が実現したのだ。全盛時代でも会衆は十五人から二十四、五人前後だったことが、記録に残っている(西村真次小野梓伝』五八―六七頁)が、それで一個独立の会館を持つこと、如何に建築費の安かった時代でも多くある例ではない。

 また明治十二年四、五月の交の会合では、会員中に委員をあげ「大日本帝国の共存同衆訂約諸国の公衆紳董に致す書」と題する公開状の作成を協議した。これは条約改正において、日本は治外法権の撤去、海関税権の回復ともに熱望するが、もしこれら全部を一時には容れられずとすれば、治外法権の屈辱は暫く忍んでも、海関税権は是非とも回復して、我が国の国家経済を養わなくてはならぬ危機に迫っていることを訴えようとするものである。第一稿は広瀬進一(当時法制局出仕、のち秋田県知事)が作り、それを小野が綿密に添削し、その英訳を馬場辰猪が担当して、でき上がったものを欧米各国の著名な政治家、実業家、新聞記者に送って、大いに世界的輿論を喚起しようとした。これは小野個人の仕事とは言い難いけれど、彼が主動者であったことは、同年五月二十一日の日記に見えている。元来このように、大いに国際的反響を求めようとするのは、彼の著しい特徴で、既に早く明治三年上海で作った「救民論」も、広く海外に示す希望を持ち、アメリカ留学中、英訳し、アメリカの新聞がこれを載せたとも伝えられている。ただし信が置き難いので、本書にはその事跡を記述しなかった。

 反響はすぐに英文『横浜ヘラルド』に現れ、これを反駁したが、アメリヵ本土のボストン『アドヴァタイザー』はこの論旨を大いに賞揚し、またハーヴァードのホースフォードも、賛意を表した。思うにその他にも反響はあったであろう。しかし果然、この月を以て、政府は官吏が講壇に上って演説するのを禁ずる法令を出した。この時、小野は招かれて法制局に出仕していたので、蓋しこれは小野の活動を止めるのを主目的として発布した制縛に過ぎない。小野の日記に言う。

是れ鼠輩が予の世間に勢を得るを畏れ、この姑息の処置を為す。蓋し是れ亡滅の基なる乎。吁々惜しむべし。予輩すら畏ろしくては、最早もてかぬるべし。惟ふにこれは井上ギのこそくりなるべし。 (『留客斎日記』明治十二年五月十一日)

 井上ギとは、井上毅のこと、彼との関係は後章において述べる機会があるであろう。この推測、恐らく正鵠を外れず、当らずとしても遠からざるものと思える。しかしこれが小野一己にはもとより、共存同衆全体に大きな打撃を与えたのは、実はその会員の過半が官吏だったので、その口をふさいだのは同衆の口の大半をふさいだにも等しい。大部分の会員が、会館での口演ができなくなったからだ。しかし舌を抜かれても筆はまだ健在である。

 『明六雑誌』は讒謗律の令が出ると「節を屈すること能はず。発論を自由にすることも亦能はず。然らば則ち単に雑誌の出版を止むるの一策あるのみ。」と言い、それは「上策」ではないが、雑誌の発行はやめようと言って(『郵便報知新聞』明治八年九月四日号)、発行二年、四十三号限り廃刊にしている。ところが小野は、公開演説は禁じられても、断続ながら雑誌の発行はやめず、なお一ヵ年継続して、六十七号(明治十三年五月)まで続けている。この間の事情には、小野の伝記としては、書くべきことが多い。また友人大内青巒を助け、白蓮会において仏教運動にも関係しているが、それらは小野個人伝に譲って、この大学史には取り上げぬのを諒とされたい。

十 『羅瑪律要』の訳述

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 小野が帰国後その年のうちに、第一に着手したのは共存同衆の結成だが、その次には、かねて少年時代からの宿願である著作に取り掛かった。その中最も重要なのは『羅瑪律要』で、帰国後、満二年を経た明治九年四月には脱稿した。これはローマ法教科書の翻訳と解説である。

 この著作は、小野の身上に大きな作用を及ぼすとともに、彼の見識を縦横に展開した注目すべき業績で、若冠二十四歳の作としてはその力量、見識ともに驚歎に値する。彼は本来大蔵省留学生であったが、この手稿によって司法省に採用され、官途の一歩を踏み出すこととなった。また、後年の主著『国憲汎論』や『民法之骨』における卓抜な論の主要点も、殆どここにその萌芽を示している。

 小野は留学当初アメリカでは法律を専攻し、それも法理の講習を第一として、傍らアメリカの成法を調査し、イギリスに渡ってからも昼間は理財を、夜間は「羅馬律例博士イ・クイン」らについて法律を学んだ。彼の帰国後明治八年末、クイン博士は小野に、ライデン大学のハウトスミット(J. E. Goudsmit)教授の主著pandentensysteem, vol. i,1866のトレーシー・グールドによる英訳書The Pandects: A Treatise on the Roman Law, ana upon its Connectionwith Modern Legislationを送ってきた。クインの添書には、本書は簡単だがローマ法の大体を尽す良書で、一読すれば必ず啓発されるであろうと記されていた。披見するにその通りであったので、小野はその翻訳に着手し、その前半部分を訳出するとともに、纂訳付注として、訳本全稿の約三分の一に当る自己の補足説明と自説展開とを行ったが、この所説にはベンサムからの影響が随所に示され、ベンサムに対する小野の傾倒ぶりが窺われる。

 小野は「纂訳之大意」を冒頭に執筆した中に、明治となり、法制上でもフランス・イギリス等の説を参酌採用するとき、応分報国の事業をしたい、そもそも泰西法の根源はローマ法にあるが、邦人を益するこの良書を得たから、これを翻訳紹介し、なお自説を以て補足する旨を述べている。明治の初め、太政官制度局で江藤新平が民法取調を開始したときにナポレオン法典を台本として以来、我が国ではフランス法が圧倒的な地位を占めた。これに対して小野は、英米法をも参酌する必要を感じていたと思われる。そこで『羅瑪律要』の三分の一に及ぶ纂訳付注には、ベンサムの立法論があまた引用されたほか、小野自身の日本社会に対する批判も鋭く示されている。

 『羅瑪律要』は司法省に所蔵され、小野の手稿全文の外、同省の浄写本もある。当時或いは出版の企図があったのかもしれない。不幸にして、西村真次著『小野梓伝』に本書は残っていないと記されたため、長くそのように信じられてきた。現在は法務図書館にあるが、そのことが判明したので、早稲田大学比較法研究所において『小野梓稿国憲論綱羅瑪律要』として昭和四十九年七月これを覆刻刊行した。『国憲論綱』は、同じく初出文献で、同郷の先輩細川潤次郎に対して小野が呈し、第二次大戦中法務図書館に寄贈されたものである。これらの上梓により、小野梓研究には新しい資料が加えられた。

 由来早稲田では、大隈や高田が生存の間は、学生が小野について聞くことも屡次であったが、いつの程よりか次第に疎隔になって、『小野梓全集』二巻、『小野梓伝』一巻が西村真次の手に成ったと言っても、小野が創設した東洋館書店の後身である冨山房の坂本嘉治馬が先代追遠の志から西村に依嘱したもので、直接的に早稲田大学の仕事とは言い難い。それ以来、或いは昭和十年に、坂本の寄附金により「小野奨学基金」を設定し、戦後には三十三年に、「小野梓記念賞」を設けて、学生間の学術・文芸・スポーツに抜群の成果を挙げた者や団体に賞を授与し、小野の顕彰には努めて来たが、小野の業績の研究は他大学よりも寧ろ後れていた。しかるに小野易簀後九十年に近く、漸くこの覆刻の刊行を見るに至って、初めて小野研究のため、学内から学界に誇るべき寄与をなし得たと言うことができる。

 更に『羅瑪律要』および『国憲論綱』の覆刻と並行して、昭和四十八年七月、学苑内に「小野梓研究グループ」が発足し、本学の指定課題研究助成費の交付を受けて、既刊・未刊を問わず、断篇・書翰に至るまで、小野の筆に成るもの一切を収めた新版『小野梓全集』全五巻の上梓に向けて準備を進めているが、その第一巻は五十三年春刊行の運びに至っている。

十一 会計検査院

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 さて、小野梓がこのローマ法を翻訳していることは、いつとなく外間に知れ、これが縁をなして、彼の運命はここに一転機を画することになる。すなわち法制局から出仕の勧誘を受けたのである。

 当時、法律の知識を持った邦人はまことに寥々たるものであった。箕作麟祥とそれを囲む知人門生を除けば、鳩山和夫、菊池武夫、斎藤修一郎など、東京大学からアメリカ派遣の第一回法律留学生は、まだ帰国していない前だから、法律の新知識を求めること、大早に雲霓を望むよりも激しい時なので、この勧誘を受けたのだ。しかしその時はまだ『羅瑪律要』が脱稿していなかったので断ったところ、三ヵ月たって、今度は小野義真から就職を勧められた。この郷土の先輩且つ恩友からの口ききでは、背けない。遂に官途就職を決意し、明治九年八月十五日に司法少丞の辞令を受けた。時に二十四歳。

 少丞と言えば軽い役のように思えるが、大隈の片腕なる矢野文雄でさえ、初めの高望みが少丞の椅子を匂わされて、それに就いている。小野に最初に着目したのは共存同衆の会員広瀬進一で、次第に小野と意気投合した。この広瀬は法制局で井上毅(伊藤博文のいわゆる懐刀)の下にいたから、先ず小野の人物・学問を井上に吹聴・推薦してその同意を得、当り前では当人が容易に承諾しそうにないので、「顕要某君」から小野義真を通じての説得により、「終に意を決して、就職の事を諾」せしめた(『中央学術雑誌』第二二号附録「東洋小野梓君伝」二二頁)。その後、役職の改廃・変動がしばしばあり、それにつれて彼の職名も変って、翌明治十年二月一日、太政官少書記官兼務、法制局専務に変った。

 この一年ほどの間に、彼は『国憲論綱』の著述を始めた。これこそ後日に完成した『国憲汎論』の第一腹案である。しかし十一月二十七日、思いもかけずコレラに罹った。これは今日でもなお人々が死病と恐れる伝染病で、明治時代は尚更のことであった。安政のコロリの恐怖観念を去ること遠からず、殊に病弱の彼は必死を覚悟したであろう。それが治癒したのは奇跡と言うの外はない。

 病中は勿論退官を願って政府から許されず、役職を代るたびに辞表を出しても引き止められ、四月二十七日(明治十一年)元老院少書記官に転ぜられ、第二回地方官会議に出席した(この会議の第一回は明治八年に開かれたが、小野の任官以前だから関知せず、九年、十年は社会不安や反乱の連続で開かれず、西南戦争終結後の十一年に漸く再開を見たのである)。この議長は伊藤博文で、今や木戸なき後、長州系の代表者であるとともに、また漸く薩長藩閥の領袖たる地位を占めようとする兆候が見えかけてくる年である。小野はその下に周旋役を務めたので、その人物の一端に接するとともに、その主宰する会議の議題、すなわち郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則の内容を逐一熟知する機会を得たが、その内容は大いに意に満たず、日々それを記録したのが「議案批評」で、論難頗る痛烈を極め、海外の議会知識の並並ならぬ強固な背景をもって、言うこと多く肯綮に当る。また、この後某大臣に一書を呈したその内容が当路者の意に逆らい、小野の地位が危ないという噂が流れていることが、大隈の耳に入った。そこで早速その椅子を動かして、自分の配下に招き寄せて、会計検査院の事に当らせた。

 大隈が小野の名を記憶に留めたのは昨日や今日のことではない。大隈自身の語るところによると、三年半の役人時代の小野義真から聞いたのである。自分の親しい同郷人に小野梓という青年がいる、今は留学中だが、帰国したらお引き立てに与りたいというような話だった。いつ頃から直接交渉が開けたのか分らぬが、ともかく大隈は機を待っていた。その間に小野は『利学入門』を著作した一方、官吏の公衆演説禁止の痛棒を見舞われ、いよいよ腐っているところへ、十三年三月には、十一年十二月以来の太政官少書記官法制局専務を解かれ(法制局が廃止されたのである)、その三月に新たに会計検査院が新設せられ、後日同藩の腹心山口尚芳を大隈がその院長に据えたこの新設官庁に、小野を三等検査官として四月に採用し、翌月直ちに二等官に進めたのを見ても、尋常一様の眷顧ではない。

 この会計検査院は、前に引用の、やや悪意を含んだ竹越三叉の説の如くば、民間人が太政大臣の実権を握るに近い勢力を占めて、掣肘なき政治を試みるには、今のところそれ以外の手はなく、伊藤も暗黙に同意していたのである。蓋し太政大臣の任命を受けるのは、公卿の中でも五摂家と九清華までの上位二級に限られ、三条はその九家の一つだから、この頃は凡庸なすなき器ではあっても、維新の功を勘案に入れれば、その人以外に有資格者がない。岩倉具視に至っては、最も下級の公卿で、本当は大臣たる資格もないのに、持前の剛腹と辛辣の手腕とで漸く右大臣にまで這い上がったような実状だから、如何に大隈・伊藤の才幹が勝れていても、目下のところ、これで我慢しなくてはならない。大隈は、前にも記したように、次のように語っている。

梓に命じて条例文を起草させた。それまでは大蔵省の中に検査局はあつたが、これを独立させて大きくし、単に大蔵省のみならず、各省の出入を検査することにした。小野は当時の自由民権家であつたが、大喜びで腕をさすつて起草に着手した。

(『大隈侯昔日譚』 二四五頁)

 今一つ、共存同衆の仲間の島田三郎の談話を引用するのは、当時の理解に資するとともに、矢野文雄との関係が述べてあり、それが後々にも本書と係わりを持ってくるからである。

太政官を改めて元老院と司法部に分つた。そして司法部は大審院で、元老院は陛下の特命に依つて樹てられたものである。その内に調査部といふものがあつたが其中には日本主義の人や西洋主義の人があつたが小野君は西洋主義の人であつた。この時分には民選の議員と云ふものがなかつたが、議政部の人たちは盛んに議論を主として政治を争つたのである。其の時分には西洋流の政治を讃美するものが沢山あつたが、小野君もその一人であつた。そして此時代は官途の人でも盛んに公開講演を試みて政治法律の議論をしたものであつた。一方では矢野文雄君があつて、小野君と共に大隈侯の下調べをしたのである。……そこで明治十二年〔十三年〕と思ふが、政府内部の改革があつて会計検査院を設立し、諸官省の会計を取締つた。其時小野君はその検査官になられ、大隈侯の秘書官の一人となられ、行政部を受持たれた。この時分の秘書官は今の秘書官と違つて行政に容喙する事が出来て、盛に行政を論じられたものであつた。小野君は此時元老院や司法省の書記官を止めて、この行政部の専務になつた。その時代には会計検査院の力を持つて会計の紊乱を矯正したのは重要な事であつた。……大隈侯の意思は、統計院と検査院を設けて国事を執らうとしたのであるが、この統計院には矢野君を以てし、検査院には小野君を以つてせられた。大隈さんはかうして、新思想の人を寄せ集めて来たのである。

(早稲田大学仏教教友会編大正七年版『小野梓』 三一―三二頁)

 この会計検査院は、仕事の重大なこと、後の総理府の模型なるものの如く、そして明治十四年の政変の爆源地であり、改進党の建設と東京専門学校の創立との擲弾筒たる役目を果したのに、後世の史家、これを閑却して、伝えること乏しい。ただ幸いに、当事者たる小野梓自ら筆をとって、その経緯を『国憲汎論』に挿入しているから、今それを援引して、記述の結論に代えよう。

是ヲ以テ十三年二月内閣分離ノ挙ヲ行フヤ、政府ハ検査局ヲ廃シテ別ニ会計検査院ヲ置キ、以テ太政官ニ直隷シ、頗ル会計ヲ検束スルノ意ヲ示ス。然レドモ当時未ダ検査院ノ職制章程ヲ定メズ。其権力ノ及ブ所得テ知ルベカラザルモノアリ。後チ一年有余ニシテ会計法及ビ検査院ノ職制章程ヲ立ツ。是ニ於テ乎、検査院権力ノ軽重始メテ天下ニ明ナルニ至レリ。今マ其職制等ニ就テ会計検査院ノ組織ヲ考フルニ、実ニ一人ノ長、一人ノ副長、十人ノ検査官ヲ以テ、其事ヲ挙グルモノナルヲ知ル。而シテ長副長ハ天皇ノ勅命ヲ以テ之ヲ任ジ、検査官ハ太政大臣ノ奏請ニ依テ之ヲ挙ゲ、共ニ年限ナク、天皇ノ宸旨及ビ内閣大臣ノ意見ニ依テ随意ニ之ヲ転免スルヲ得。但ダ其位置ノ強弱ヲ論ズレバ、稍々各庁以外ニ独立シテ其職権ヲ維持スルヲ得ルノ望ミアリ。蓋シ当時ノ内閣ハ皆ナ専任ノ参議ヲ以テ組織シ、検査官タルモノ内閣ニ対シテ自カラ顧慮スルコト少ナケレバナリ。然リ而シテ当時ノ検査院ハ稍々強大ノ権力ヲ有シ、会計部内ノ一要権ヲ占メ、予算ト決算トニ対シ、其権重シト雖ドモ、金員ノ現出納ニ対シテハ権力ノ及ブ所甚ダ弱キヲ見ル。蓋シ検査局存在ノ日ニ在テハ、国庫ノ金員ヲ出納スル毎ニ必ラズ先ヅ其検閲ヲ経由シ、而シテ後チ之ヲ出納セシト雖ドモ、其廃止ノ後ハ之ヲ検閲スルノ権、移テ調査局(大蔵省ノ一局ニシテ検査局廃止ノ後チ之ヲ置キ其所掌略ボ検査局ニ類ス)ニ存シ、遂ニ検査院ニ伝致セザレバナリ。然レドモ国庫ノ現出納ニ対シ全ク会計検査院ノ権ヲ除却セシト云フベカラズ。蓋シ創定会計法第二十八条ニ拠レバ、大蔵省ハ国庫ニ於テ日々出納スル所ノ金額科目及ビ事由ヲ詳記シ、其毎翌日会計検査院ヘ報告スベシトアリ。以テ一日ヲ隔テテ国庫出納ノ実況ヲ詳悉スルヲ得、稍々之ヲ監査スルノ便アレバナリ。斯ノ如ニシテ会計検査院ノ権漸ク定マリタリト雖ドモ、其実権ヲ行フ纔ニ十箇月ニシテ許多ノ変換アルニ遇ヘリ。是レ即チ改定会計法改定会計検査院職制章程ノ発付ニシテ、実ニ本年(明治十五年)一月ニ起レリ。今按ズルニ、夫ノ会計法ノ改定ハ異常ノ変動ヲ拿来シテ之ヲ会計検査院ノ権力ニ及ボスモノニシテ、会計検査院ノ一点ニ就テ之ヲ云ヘバ、実ニ壮大ノ変換ヲ為シタルモノト云ツベシ。蓋シ旧法ニ拠レバ、予算ヲ審査スルト毎翌日国庫ノ出納ヲ詳悉スルハ会計検査院ノ特権ナリシト雖ドモ、改定法ハ其権ヲ停止シ、予算ノ審査ハ大蔵省之ニ当リ、国庫ノ出納ハ毎月一回之ヲ報告スルニ止メ、会計当該官ニ対スル権力ノ如キモ亦タ多少増減セシヲ見ルベケレバナリ。是ヲ以テ今日ノ会計検査院ハ自カラ前日ノ会計検査院ト似ズ。実ニ金銀ノ出納ヲ追査シ其当否ヲ審査判定スルヲ以テ其特権トス。 (下巻 八〇八―八一〇頁)

 会計検査院における小野在任は二ヵ年足らずで、明治全史から通観すれば大書して伝えるに当らぬかもしれない。しかし大隈、小野、鷗渡会の三因子が結合して学校の設立を計った連絡所として、仮に早稲田学宛百年の歴史を、永遠に綴らるる宇宙の一大文章の一部と見れば、的礫として「字眼」の重要意義を持つものと言わねばならない。